BE WILD (1)
- earthspiraljp
- 2015年4月13日
- 読了時間: 4分

(2015.4.7 facebookより転載)
わさびがぶらっと出て行ったきり、戻ってこない。
一昨日の日曜日の夕方に出て行ったので丸3日が経った。
自分の気持ちの整理をするのに、気づいたことやら考えたことを、書いてみます。
夕方に出かけて暗くなっても戻ってこないので、この前みたいに、
向かいの小屋にでも閉じ込められてるのでは?と思って、次の日に探しに行ったけど、いなかった。
今までの失踪事件の時は、必ず、もりぞう氏が見つけてきたので、
もりぞう氏は、昨日今日と心当たりのところを散歩しながら探してくれた。
わさびは不思議ちゃんなので、過去にも「なんでこんなところに..」というところで見つかったりしていた。
外で遊ぶのが大好きなので、冬が終わってグリーンシーズンが来れば、
また朝出たら鉄砲玉のわさびになるのは覚悟していたし、
裏磐梯の大自然満喫して、わさびは満足なのだろうから、何があっても本望と思うようにしてる。
わたしはだいたい猫に関しては心配し過ぎ傾向があるので、
まあ、そのうち帰ってくるでしょ、ぐらいな気持ちでいようと思ったけど、
雪もまだ解けきっていない寒い時期なので、そうもいかず。
探しに行って「わさびー!」と呼べば、フクロウが「ほっほほっほー」と鳴いて、
エサがない時期、フクロウにでも喰われたか?とか、
どこかに落ちて寒い思いをしていないかとか、悪い事ばかりを考えてしまう。
いかんいかんと思って、あまり気にしないようにするのだが。
そうかと思えば、「私が何かやるべきことをやっていないので、
神様が罰を与えたのではないか」「私が何か学ぶことを怠っているからじゃないか」とか
今度は自分を責めることを考え、そして、〇〇しますから、わさびを助けてください、
みたいな、取引モードになったり。
生きていると思う自分と、もうあの世に行ってると思う自分の両方が立ち現れてくる。
今朝起きた時に、こう思ったのです。
わさびが今どうしているか、考えると、寒いところで心細くしているのではないか、
って考えると自分がつらいから、ちょっと想像して心配になり、
また何かを想像して心配になったり、というのを繰り返しているんじゃないかなと思った。
だから思い切って、そこに意識を向けてみた。もし、寒くてつらい思いをしていたらどんなだろう、
家に戻りたい、私たちやくるみにも会いたいって思っているのかな…と思ったら、急に涙が出てきた。
人間の近くにいる動物(つまりペットや家畜)は人間になりたいと思って、
人間修行をしている、と考えてみる。
わさびは野生動物に近い感じなので、だっこは嫌いだし、触られるのも嫌いだった。
でも、最近、軽く体をタッピングしてもらうのが気に入って、人の近くに来るようになった。
わさびを触る機会も増えていた。
あの、野生児のままのわさびだったら、外が好きなら、
もし戻ってこれなかったとしても本望だろうと思えたのに、
少しだけでも人といることの心地よさを知り、家が恋しい気持ちが芽生えていたとしたら、
帰れない切ない感じを思ったら、涙が出てきた。
悲しいというよりは、魂の痛みとでもいうような感覚だなと思った。
同時に、これが人間的な感情なんだと思った。
野生動物たちにはもちろん本能的な愛情はあると思うのだけれど、
人間的な感情というのは育っていなくて、人間の近くにいることで、
関係性に伴う感情がだんだん豊かになっていくのだろうと思う。
そして、わさびが身体的にもつらい状況にあっても、
帰りたい場所、会いたい人がいる、ということが生きのびる気力になったり、
戻ってくる力になるのだろうなと思った。
だから、きちんと「わさびのことは大事だし大好きだし、いつでも戻ってきていいのだよ」
というのをちゃんと伝えていいのだと思った。そして、心の中でそう伝えた。
同時に、現実がどうなっていくのかは、わさびの魂の計画によるものなので、
私の願望が関与するものではないし、それを信頼するという気持ちも存在している。
そして、わさびに戻ってきてほしいという気持ちと、戻ってこなかったとしてもそれは必然であるという、
その二つが自分の中で共存できるようになった。
まだ、丸3日しかたっていないし、裏磐梯の冬を乗り切り生きている野良猫も何匹かいるので、
絶望せず、期待しすぎずな日々が続きます。